2017年11月26日日曜日

10月の3連休旅行:高松城(岡山県岡山市)

2017年10月9日訪城。

松山城から下山後、帰りの新幹線に乗るため岡山方面へと移動して途中の高松に立ち寄った。軽く食事をして最後に羽柴秀吉の水攻めで名高い高松城に立ち寄る予定だったが、高松のうどん屋で頼んだ「宗治うどん」が思いのほか量が多く(※しかも2段重ねの重箱だった…)、じっくり食事をした結果かなり時間を食ってしまった。

高松城は中世に三村氏家臣の石川氏によって湿地帯に築かれた平城で、毛利氏に攻略されてからは清水宗治が城主となった。その後、1582年に織田氏家臣の羽柴秀吉の軍勢に包囲されて水攻めを受け、低地だった城の大部分が水没してしまう。だが、包囲中に「本能寺の変」が起きたため、秀吉は宗治の切腹を条件に毛利と講和し、城の包囲は解かれた。後に高松は宇喜多領となって花房氏が城主となるが、一国一城令で廃城となった。

船橋跡
城跡へ向かう途中の小さな水路に架かる橋に「ふなはし」と書かれているが、これは城が健在だった時代に三の丸の水堀に船を連結して浮かべて橋の変わりとして利用していたことに因むものだという。現在橋の長さは3mほどだが、船橋があった頃は約64mあったという。城の周囲に広い堀があったことが良くわかる話だが、現在は水田と住宅地でその面影はあまり無かった。


築堤と本丸の高さの比較
船橋の先の住宅地が既に三の丸跡になるが、三の丸跡の北側に行くと高松城の史跡公園へと入る。公園の入口には城を水没させた築堤と本丸の高さの実寸が展示されており、なかなか面白い。


二の丸跡と高松城資料館
公園に入ってすぐの所に見える蔵のような建物は資料館で、この辺りから二の丸跡になる。公園内だと二の丸と三の丸の境界が判りづらいが、画像の画面外右側の方にかすかに堀跡とみられる箇所が確認できる。


蓮池
本丸跡と二の丸跡には堀があって橋が架かっている為、境界は非常に分かりやすく、南側に広がる蓮池も城の周囲が水堀だった面影をよく残している。この蓮池は公園整備の際に埋まっていた堀を掘り返した物で、その時に埋まっていた400年前の蓮の種が発芽したらしく意図せずに自然に蓮池になったという。他の土地でも古代の蓮が咲いた事例があるだけに植物の時間のスケールには驚かされるものがある。


本丸跡
本丸は二の丸よりも少し高いため、他の郭に比べるとその跡が判りやすいが、内部には宗治の辞世の句碑と首塚があるくらいで、城の遺構はあまり見当たらなかった。本丸まで見た後は予定では築堤を見に行くはずだったが、時間が無くなってしまった為、ここでタイムアップとなった。