2017年10月15日日曜日

9月の3連休旅行:笠間城 (茨城県笠間市)

2017年9月18日訪城。

9月の連休は台風と前線を回避しながら津々浦々を彷徨い、最終日の18日に関東へ戻ってきた際に晴天となった為、帰路の途中で笠間へと立ち寄った。笠間にはまだ訪れていなかった笠間城があったからである。

笠間城は鎌倉時代に藤原時朝(笠間氏)が築いた山城で、1598年に蒲生氏が宇都宮の転封された際に蒲生家の蒲生郷成によって天守台等の石垣を築く大改修が行われている。その後、松平氏が城主となって笠間藩が誕生し、以後目まぐるしく藩主が変わった。余談だが、歴代藩主の中には赤穂浪士で有名な浅野家もあった。

笠間城下屋敷跡(山麓公園)
まずは山の麓の下屋敷跡である山麓公園に立ち寄ったが、ここには当時の時鍾があり、画像の建物が時鍾楼である。この建物自体は現代のもので、中に収められている時鍾が文化財となっている。下屋敷と直接関わり合いのあるものは無いが、地形そのものはまさに絵図の下屋敷の通りだった。


山道
下屋敷跡の公園から奥に進むと山道があり、そこから城山へと登れるのだが、絵図には屋敷から直接登る道は無い為、後世に造られた道だろう。ただ、いざとなった時に屋敷を出て大手門に回るというのも妙な為、当時から搦手の道はあったようにも思える。


本丸跡
途中車道を横切り山を登りきると広い平場に出るが、ここが本丸跡である。本丸に登る直前に石垣があるが、そこが宍ヶ崎櫓跡らしい。画像の奥に見える土塁が八幡台櫓跡で、本丸の土塁は本丸南側(この画像の右側)に良く残っている。


本丸の土塁の上
土塁はかなり大きく、土塁の上も画像の通り幅が広い。復元図だとここには塀が描かれているだけだが、多門櫓的な用途があったようにも感じられる


本丸の奥の空間
本丸の土塁はちょうど八幡台櫓跡の部分が仕切りのように本丸を分割しており、奥側の空間には石柱に囲まれた木が中央に一本あったが、特にこれについての説明は見当たらず、結局今も謎である。


本丸と天守曲輪の間の堀切と土橋
本丸と山頂がある天守曲輪との間は堀切で切られており、ここに土橋が架かっている。復元図だとここは木橋になっており、頂上に神社が移された際に土橋になったのだろうか?


天守台の石垣の最下層
天守曲輪の階段をしばらく登ると天守台に到着するが、ここは岩山を利用しつつ石垣の台が造られており、なかなか立派で迫力があった。


天守台の石垣と佐志能神社
石垣の天守台は4層になっており、最下層には登れたのだが、それより上は立ち入り禁止となっていたた為、画像の写真のみ撮影した。よく見ると画像でも所々崩れているが、震災によって一部崩落して危険な状態らしい。


本丸の側面の石垣
山頂まで行けなくて残念だったが、帰路は本来の登城路を辿って戻ることにした。本丸から二の丸に降りる部分には石垣がハッキリ残っており、いかにも大手道らしさがあった。二の丸の内部はただの雑木林と藪だったので割愛。


倒木
大手側には登城路の他に本丸まで車道が設けられているが、ここの道は倒木で塞がれていた。まぁ、一般人は下の駐車場までしか車で来ないので影響は無いとは思うが、これは台風によるものだろうか?


大手門跡
二の丸から登城路を降っていくと大手門跡があり、ここは内枡と外枡を堀切で挟んだような構造になっていてその造りに驚かされた。なお、ここにもしっかり石垣が使用されている。


千人溜(駐車場)
大手門跡の外側は広い空間になっており、現在は駐車場になっているが、当時は千人溜と呼ばれた場所だった。所謂、兵が集合点呼したり、馬を揃えたりした場所なのである意味では今も昔も駐車場である。


大黒石
山を下山中に見つけた「大黒石」。笠間城が出来る前に、佐白山の頂上付近にあったものらしく、佐白山の正福寺の僧兵と徳蔵寺の僧兵が争った際に、劣勢だった正福寺の僧兵が転がして落としたものらしい。徳蔵寺の僧兵はこの落石に巻き込まれて打撃を受けたため撤退したという。


笠間稲荷神社
城山から下山した後は笠間稲荷に参拝した。ここは稲荷寿司が名物らしいが、時間が遅かった為かどこの店も売り切れていたので、結局酒造店でソフトクリームを食べただけで帰途についた。